インドのサティのニュースで。

ニュースにコメントしている人たちを見ているとかなり残念な気分になった。

「禁止されようが後を追うのは個人の自由だろう」
「習慣とかじゃなくて愛だったんじゃないかなぁ」

適当に巡回していたときに目についただけなので正確な引用じゃないけれど、
だいたいそんなコメントが見受けられた。*1


mixiのニュースだったんでリンクは貼らないけど、記事によれば「インド政府はサティの美化を禁じている」とのこと。実行じゃなくて美化。
もちろん実際にはサティの実行そのものも禁止されているんだけれど、
この短い記事の中で単に「サティを禁じている」と書かず、
わざわざ「サティの美化を禁じている」と書いたことには意味があるはず。
だというのに、サティの行為に憧れるような反応があるもんだから、残念だ。


いろいろ書いたけれど、簡単に言えば、考えてほしいのは次の2点。
サティが自発的とは限らないということ。
今のインドにおいて、夫を自分で選べる女性がどれだけいるのかということ。


強制とまではいかなくとも、風習に逆らったところで村八分
みたいな空気が残っていないとも限らない。
第一、愛といえば聞こえが良いが、愛とは何か。
経済的な理由と愛ゆえの死を天秤にかけた結果だった可能性だって有るのに。


もちろん自分の意思で、サティなんて風習が無かったところで、
経済的に何の問題も無かったところで、死を選ぶ人もいるのだろう。
だがそれが、他人にサティを強制する下地を作りかねないことも解ってほしい。
サティが美化されなければ、死を選ばなかった人だって大勢いるだろう。
周囲の視線に耐えきれず、死を選ばざるを得なかった人だっているだろう。
文化による殺人*2の一種である。
それでも個人の自由なのか?
自分の自殺が、誰かに望まぬ自殺を強制してしまうかもしれないとしても?


習慣ゆえの自殺なのか、愛ゆえの自殺なのか。
それを外から区別することはできない。
そもそも当人にだって明確に区別できるものだろうか?
いずれにせよ、「習慣によるとは限らない」と言う意見はナンセンスだろう。
「習慣によるかもしれない」自殺が存在する時点で問題だと思うのだが……。


純粋な愛による後追い自殺を完全に否定しようとまでは言わない。
だがそれが容認されるのは、それが否定される社会においてのみだろう。
例えばキリスト教では自殺は禁じられている筈だが、
敬虔なキリスト教徒が夫や妻の後を追ったというのなら、私には否定できない。


最後に個人的な想像だが、
サティというのは女性蔑視によって生みだされたシステムだと思っている。
未亡人が自殺してくれれば、それを養わなければならない人間の家計が助かる。
ついでに自分の死後も他の男に嫁がない保証が出来るわけで、夫も満足。
或いは逆かも。
貞節な妻」が美徳とされているがために再婚できず、
ついでに誰も養ってくれないのでは、未亡人としては自殺するしかない、と。

*1:念の為言っておくが、こういう意見は一応少数派な印象。

*2:或いは伝統による殺人